父と三線
ちょいと父と三線のことを書かせてもらいますよ。
いや、ちょいとじゃないかもな。
そこそこ長くなりますので、予めご了承ください^^;
先日他界した父の葬儀会場、その後自宅の祭壇横にもずっと飾ってあった三線2挺。
ひとつは、祖父(父の父)が1975年に三線の名工・又吉真栄氏に作ってもらったらしい(棹に銘が打たれてます)真栄氏オリジナルの型「マテーシー千鳥」。
以前、別のブログでも紹介したことがあるので、覚えてる方もいらっしゃるかもしれませんね。
もうひとつが、沖縄タイムスの旧社屋の基礎に用いられていたリュウキュウマツの杭(くい)から製作したという三線。
>>マツ杭で三線を製作 タイムス旧社屋の基礎 | 沖縄タイムス+プラス
金武の教室には他にも何本かあるんだろうけど、那覇の自宅ではこの2挺を気に入って主に弾いていたようだし、それぞれエピソードもあるので、葬儀の時も飾らせてもらうことにしました。
父は昔から古典が好きだったようです。
子供の頃は、三線好きだった曽祖父(父の祖父)の弾く唄三線を8人兄弟で唯一いつも横で興味深く見聞きしていたと、父の兄弟から聞いたことがあります。
職場の愛好会みたいな形で古典を始め、本格的に師匠に師事し安冨祖流の三線を学び始めたのは30代後半くらいだったと記憶しています。
定年後は自身の地元・金武で小さな三線教室を開き、那覇の自宅から週2回通っていました。
一方、息子の僕はというと、これまで父から手ほどきを受けることもなく、全くの我流で好き勝手に三線を弾いてきました。
でも、それについて父がとやかく言うことは全くありませんでした。
でも僕も実はずっとやりたいと思っていたんです、琉球古典音楽。
なかなか踏み出せずにいたけれど。
それがこの春、いろんな出会いやタイミングに恵まれ、ようやく踏み出すきっかけをいただきました。
そして、師匠をはじめ先輩弟子の方々のご指導のおかげで、この7月には琉球古典芸能コンクールの安冨祖流三線新人の部に合格することができました。
やっとこれから父と琉球古典音楽についていろんな話ができるスタートラインに着けたなと思っていたのに、まさかそれから1ヶ月もしないうちにこんなことになるとは、思ってもみませんでした。
父が亡くなった後、親戚その他いろんな方から「あんた最後にいい親孝行したね〜」という言葉をいただいたのですが、確かに今思えば不思議なほど絶妙なタイミングだったし、合格を報告できて本当に良かったとは思っています。
でもね、やっぱり後悔ばかりが出てくるんですよ。
あと5年、せめてあと3年早く古典を始めていればとか。
もっと父の前で弾いて話を聞いていればとか。
実は父には安冨祖流で古典を習い始めたという話もコンクールを受験するという話も伝えたのはほぼコンクールの直前。
コンクール受験のために本番の数日前に帰省した際も、師匠の道場で稽古するばかりで、実家ではほとんど弾かず(というか実家では飯食って風呂入って寝るだけ?^^;)。
コンクールの2日前だったかな?、稽古を終えて帰ったら、たまたま父が三線の弦を張り替えていたんです。
手元が見えにくそうだったので途中から僕が代わり、張り終えた流れでサラッと弾いたのが「伊野波節(ぬふぁぶし)」(コンクールの新人賞の課題曲)。
これが僕の古典の独唱を父にちゃんと(と言えるほどちゃんとしてなかったけど)聴いてもらった唯一になってしまいました。
「うん、本番緊張しないでできたら大丈夫じゃないか〜」と言ってくれた父にも「ありがとう」と答えた僕にもまだ互いにどこかしら照れ臭さが残っていたような気がします。
父の紋付袴を借りて挑んだコンクール本番。
道場から出陣!と草履を履こうと思って袋から取り出したら、まさかの黄色い「島ぞうり」!
しかもマジックで書かれた名前入り!(笑)
たぶん父にとっては上等な草履よりこっちの方が履きやすかったんだはずね。
あまり見た目や格好に頓着しない父らしい話なんですが、お陰で本番直前の舞台袖でもこのことで兄弟子たちと笑ってホッコリし、余計な緊張から解放されたような気がします(^ ^)
無事、コンクールの新人賞合格を報告でき、これからいろいろ教えてもらおうと思っていたのに、次に沖縄に帰った時、父はもう病院の個室のベッドの上でした。
そんなに深い会話も出来ない状態でした。
でもそんな中、父のお弟子さんのKさんが、「その病室で三線弾いていいですか?」「お稽古つけてください」と自ら病院に許可をもらって来てくれたんです。
体調が芳しくない中でも「彼女に来年教師免許を取らせてあげるまで頑張ろう!」と父の大きなモチベーションになってくれていた、最後のお弟子さん。
不躾ながら、僕も一緒に演奏させてもらえないかとお願いして、Kさんと2人で病室で前出の「伊野波節」、歌わせてもらいました。
ちょっとたどたどしい演奏になってしまったんだけど、曲が終わった後、横たわっている父が「じょーとー!」って叩いた手の力強さは、その後見られないくらい渾身のものだったように思えます。
その後しばらく続いた父とKさんとの病室でのお稽古は、本当にとてもステキな時間でした。
それが最後の稽古になってしまったし、教師免許まで指導できなかったことを父はとても悔やんでいると思うけれど、そんな素晴らしい時間を過ごさせてくれたチムグクル溢れるKさんに対して家族みんなで感謝してもしきれないほどです。
その素敵な師弟関係は、初七日の席でもひとつエピソードを生みました。
特に打ち合わせていたわけではないはずなのにたまたま同じタイミングでいらっしゃったのが、父が最初に師事した古典の先生(故人)の娘さんとその兄弟弟子でその後指導してもらっていた先生(こちらも故人)の息子さん(お二人同士はお知り合い)。
どちらも僕は初めてお話させてもらうので、ご挨拶して自身のコンクールの話などもしていたところ、これまたたまたまいらっしゃったのがKさん!
しかもちょうど空いていた座れる場所が、我々が話をしていたすぐ横。
とても自然な流れでそれぞれをご紹介差し上げたのですが、父の大先生の娘さん、先生の息子さん、最後のお弟子さん、そして息子の僕という4人が上手い具合に集ったというこのタイミングの不思議。
きっと父が引き合わせてくれたんだろうと思わざるを得ませんでした。
他にもまだ書きたいことがありますが、今日はこんなとこにしときましょうかね。
とにかく、ああすれば良かった、こうすれば良かったという後悔は後から後から出てきますよ。
もっと古典を早く始めていればよかったというのはもちろんのこと、父の唄三線をある程度ちゃんとした形でレコーディングしておけばよかったとか、ちゃんと2人でゆっくり飲みに行けば良かったとか、他にもいろいろ。
僕が子供の頃から、何か自分の意見を押し付けるようなことはせず、常に本人の意思を尊重する人だったから、ずっとそれに甘えて好き放題してたよ、「いつか、そのうち」って。
全く後悔の無い生き方なんて誰もできないと思っているんだけど、せめて、これからの後悔を少しでも少なくできるような生き方をしてしていこう。
天国の父が心配しないように。
恥ずかしくないように。
感謝を忘れずに。
駄文・長文にお付き合いいただきまして、ありがとうございましたm(_ _)m
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